あとはまたそれから考えればいい

歩いて耕して食べる、歩いて耕して食べる。ただ、それだけでいいと思う。

 

2018年3月16日
おばあちゃんが大切にしておられた庭、木々は大きく育ち長い時間をかけて集められた草花たちは元気に育っていた。どうすればいいかわからなかった、だからお庭のまわりを一周する道を作ろうって思った。道ができる、お家の人たちがそこを歩く、まいにち歩く、そうこうしているうちに、今まで見えなかった風景が見えてくる。次に菜園を作った。歩いて耕して食べる、歩いて耕して食べる。そんな庭ができればいいなと思った。あとはまたそれから考えればいいと思った。

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目があった時にはびっくりした

室生犀星が「庭をつくる人」なんていう本を書いているなんてずっと知らなかった。本屋さんの棚で目があった時にはびっくりした。

2016年3月11日
基本的に訳もなく小さなものが好きだ。車も家も店も会社も町も。それでここのところおもしろいなぁと思うのは小さな図書館。で行ってきた「 まちライブラリー」のお話に。まち中、日本国中にいろんなちっちゃな図書館ができればいいなぁと言う、そんなお話を聞きに。帰りについたときは日にちが変わっていた。自己紹介代わりに一冊ということで持参したのは、「庭をつくる人」室生犀星と「野蛮な読書」平松洋子。最近平松さんが好きなので。

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鶴見俊輔さんてこういうひとで

なんだかいいなぁ。とてもわかりやすいのに、とても深くて。詩なんだけれど、散文でもあって、そんなことどうでもいいよねぇ。

2016年3月9日
新聞の切り抜きをしていて、気になるなぁと思いつつも、そのままにしていたのだけれど、どうも気になるなぁがだんだんおおきくなってしまうことがよくある。今回は少し前になくなられた鶴見俊輔さんのことだ。それも夜、寝床に入るとき毎晩のように考える。 「 深くねむるために 世界は あり/ねむりの深さが 世界の意味だ」なんてこと僕が言ってもなんともないのだけれど、鶴見さん言うと、おおきくおおきくふかくふかくなる。鶴見俊輔さんてこういうひとで、こういうひとがいたことがうれしい。
《深くねむるために 世界は あり/ねむりの深さが 世界の意味だ》(「かたつむり」、『鶴見俊輔全詩集』)

すっかり忘れていたけれど

とってもなつかしくもあり、とってもハイカラでもあり、ノイバラがいい。

2012年3月7日
再びのお庭文学、ノイバラと江戸の植木屋清蔵、主役ではないが、お庭のひととしては、これらばかりに目が行く。コッツウォルズのオープンガーデンなんて言うのも出てきて、申し分のないお庭文学。どんな花が好きと問われて、なかなか答えが浮かばなかったのであるが、ずっと気になっていたノイバラ、すっかり忘れていたけれど、一躍お気に入りに飛び出してきた。さっそくt邸の図面に描き入れた。太平洋を臨む丘に白い花の風景が実現するだろうか。もうひとりの主人公清蔵、あわや英国艦隊と幕府の開戦かと言う状況下においても毅然としたもの。さすが江戸の植木屋、堂々たるもの。英国のガーデニングと江戸の園芸文化、比べて語られることが多い話題、それが小説になった。英国軍人の目が見た江戸の園芸文化がすばらしい。

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例えば右と左に分かれる道があって

パイロット・フィッシュ」大崎善生著を読んだ。10年ほど本箱の隅でずっと埃をかぶっていて、昨年夏の大掃除でようやく発掘された。いつもレモン色のワンピースを着ている由希子さんと、いいやつだけれど由希子さんに「人生の方向音痴」と呼ばれてしまう山崎君とが出会って、長い不在があって、また会った時のことが書いてある。そしてこんなことを話す。
「それにね、私思うの。例えば右と左に分かれる道があって、右に行くことが楽しいと確信して右に進んでいく人間と、正しい道かどうかもわからずに、だけど結果的に右に進んでしまっている人間とどちらが優秀で、そしてどっちの人生が楽しいのかって」
「私みたいに進むべき正しい道がわかっているように思い込んでいる人間は、右の道を迷わずに進んでいく。そしてね、一度その道を歩き始めたらもう戻ることができなくなるの」
「でも僕はあの夜、左の道に入り込んで、そしてもう戻れなくなっていた」
「そうじゃないの。 今になるとわかるの。あなたが左に進んだわけじゃないの。ただあなたはいつものように道の前に立ち止まって、何も選ばなかっただけ。問題は私で、私がどんどんと右の道を歩き始め、気がつくともう戻れない場所にいた」p.222~p.223
そんな風に話したあと山崎君はこんな風に思う。
「由希子の着る淡いレモン色のワンピースを見て僕は初めて思った。そういえば初めて出会ったときも、僕の部屋に訪ねてきてくれたときも、そして喫茶店で会った最後の日にも、いつも同じ色のワンピースを着ていたなと。それからこうも思った。今そのことに初めて気がついたように、年月とともに失っていくものがあると同時に、それとともに生まれてくる感覚だってあるのではないだろうか」p.242~243
本の帯には愛しくせつない至高の青春小説とあった。山崎君はその後うまくやっているだろうかと、ちょっと心配だ。由希子さんはしっかり者だからうまくやっているに違いない。そういえば早川義夫に赤色のワンピースという歌がある。
https://www.youtube.com/watch?v=U6Rh5Vr21JU

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ちょうどいいゆらゆら歩きがいいなぁと

何事もやわらかいことが好きなのだと思う。軽いことが好きなのだと思う。で、小さいことも。それだけでは生きられないのだけれど。

2015年3月10日
道のデザインが好きです。このところしばらくカチカチと音がするような直線、直角の道をつくっていたのですが,でもかつては,わけもなくスラロームスラロームって,ぐにゃぐにゃの道を製図板の上に描いていました。多分「自然は直線を嫌う」と言う私たちの先達ウィリアム・ケントの言葉をたたきこまれていたからかもしれません。わけもなくぐにゃぐにゃから,カチカチの直線に,そしていまもういちどゆったりとした曲線にもどってきた気がします。あまりの遠回りもいやだけど,全力疾走の直線もいやだけれど,ちょうどいいゆらゆら歩きがいいなぁと思うようになってきたのでしょう。むかし磯崎新さんが,モンロー定規という曲線定規を作ったと聞きましたが,道のデザインには使えそうにないなぁと思うのでした。

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おうちだの、お庭だのと

ちょっとおかしな時代になってきた。でも荷風さんだっておかしなおじさんだった。こういう時代だからこそ、荷風さんのようにおうちだの、お庭だのと言い続けていきたいと思う。

2012年3月4日
お庭文学というのがあるだろうと、そんなのを探してきては読んでいるのだけれど、持田叙子さんの「荷風へ、ようこそ」は、従来荷風と言えば、散歩のひと、街歩きのひと、ばかりが喧伝されているが、実は、おうちのひと、お庭のひとではなかったかと言うようなことを書いていて、そうだそうだと強い味方を得たようで嬉しい。だんだん勇ましく、凶暴になって行く時代において、おうちだの、お庭だのと言いつづけた荷風さん、モネの「ジヴェルニーの睡蓮」の装幀に喜んでおられるだろうなぁ。 

 

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