はてなダイアリーの廃止に伴い、この間はてなブログへの移行作業を続けてきましたが、ようやく最終URLの環境が整いましたのでおしらせ致します。
今後、新規の投稿は以下に統一されることになりましたのでどうぞよろしくお願いいたします。
machidesign のブログ
「読書の日記」を読んだ。著者の阿久津隆さんは初台でfuzkueと言う本を読む店をやっている人で、こんなに厚いの読み通せるかなとおもったけれど、ぐいぐい読み進んでしまった。書評のような日記のようなビジネス書のような東京シティ・ガイドのようでもある本だ。でもこれが良かった。だって人間は本だけでは生きていけないし、ビジネスだけでもだめだし、おしゃれだけでもだめだし、それらと複雑に絡み合いながら、日々悪戦苦闘しているのだから。でもそんな悪戦苦闘する姿をさらけ出すのなんてかっこ悪いし恥ずかしいし。だからそんなことみんなあまり表には出さないのだけれど、阿久津さんは毎日とっても正直に怒ったり、泣いたり、快哉したり、自転車で疾走したりしている。そしていつも次は何を読もうかなって考えている。僕もいつも次は何を読もうかなってあぁでもない、こうでもないと迷ってる。でもなぜか阿久津さんは次はこの本だって教えてくれる。だからあまり迷うことがなくなった。それは多分、それらの本たちが日々の格闘の中から生まれてくるからだと思う。
本を味わうというのはたぶん文字通りむしゃむしゃすればいいだけの話であって、おいしさにため息をついたりすればいいだけの話であって、言語化するにしても「おいしい」くらいで十分なはずであって、食べたものの味や印象を言語化することが食べ物を味わうことの必要条件ではないのと同じように、食べたものをただただ「おいしい」と言って食べていたらそれで十分に豊かな体験になるように、本も読んだものの意味や印象を言語化することが本を味わうことではまったくないはずで、ただ「おいしい」と言って読んでいたらそれで十分に豊かな体験になるはずだった。p.590
読書は僕にとって自分自身を理解するためのひとつの道なのだろうか。結果としてそういうことが起きることは(他のなんであれ起きるときは起きるであろうように)あるだろうけれどもそんなに立派なことではない、ただの大好きな趣味であり時間つぶしでありなによりも日常というか日々の基調みたいなものだった。ただ本を読みながら生きているだけだった。p.594
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なんかいいなと思うのだった。この本「優雅な読書が最高の復習である」は、ルヴィン・トムキンズの「 優雅な生活が最高の復習である」のもじりである。著者の山崎まどかという人は、女子文化を中心に書くコラムリストであり、前著「ブック・イン・ピンク おしゃれ古本ガイド」の帯には「乙女は読書でおしゃれする」とある。だから僕のようなおじさんが読むにはかなり勇気がいる。でもいいのである、いいものはいいのだ。書評本であるからいろんな本が選ばれている、でもそこで選ばれている本 のほとんどが聞いたこともないような、そして多分今後も読まないだろう本たちだ。それでもまどかさんは読書というもの、本というものの醍醐味を見事にいい当ててくれている。いわく「ジェーン・オースティンの読書会でまさに読む女たちについて書いた作家カレン・ジョイス・ファウラーが「「読む女」たちのポートレート集」に序文を寄せている。彼女はそこで、画の中の女たちが手にしている、本を読む女たちがめったに得られない、だからこそ貴重な、一種の勝利の瞬間について書いている。・・・・・・・この本に収録された読む女たちの画や写真は、本を読むという小さなアクションが意味する豊かで複雑で、静かな世界へと読者を導く、さまざまなささやかな勝利の瞬間を見せてくれる。」p.139 本を読むこと、それはささやかな勝利の瞬間。卓見であると思う。こんな読み手がいたんだ、そしてこんなに面白い本についての書き手がいたんだ。そこが嬉しい。鬱屈しそうな今のこの日本で、こんなに自由にのびのびと本とともに生きている人がいること、そこがうれしい。
松家仁之さんと出会ったのは、「火山のふもとで」だった
ゴールデンウィーク引きこもり二日目は、衣替え、冬物をしまって、夏物を出して、天袋を開けたり閉めたり、この行事は決して嫌いではない。外はやさしい雨で。でこんな時は、これなんだけれど、これ子守唄というには元気すぎて昼寝どころではなくて、気分は踊って歌ってということになってしまう。
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長いお休みだからひたすら家に引きこもってだらだらしているのだけれど、ようやく日も暮れて久しぶりに今日の音楽は?ということになると、迷うことなく、やっぱりそれはチェット・ベイーカー I've Never Been in Love Beforeということになるのだけれど、なんと退廃的なこと。
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カミング アウト したいと思う、手紙病であったこと。
2015年4月28日
今日の言葉より
「 国際電話やファクスの時代を経て今や電子メールにやり取りが成り立つ世界になお船便や航空便を支持する者がいるとしたら、そのひとりに数えていいだろう杉本氏(杉本秀太郎)は、「パリ便り」と題された一文のなかで、異郷で手紙を待ちわび、また書き続けたくなる自身の心持ちを郵便病と揶揄しつつ、「心の渇きは、なまの言葉では癒されません」とさりげなく言い切る。手紙を愛する、というより必要とする人々は、文字に移された思考の痕跡を通じて、現実に拮抗する勇気を与えられるのだ。」本の音 堀江敏幸著より、言葉の宿り木「音沙汰 一の糸」杉本秀太郎
う~ん、杉本さん、そんなことさりげなくでも言わないで下さい。