小さなおしまい

鶴見俊輔さんも、橋本治さんも、ミシェル・ルグランさんもいなくなってしまった。このところ好きだなぁ、いいなぁと思う人たちが次から次に逝ってしまう。「小さなおしまい」が続く、「小さなおしまい」の後ゆっくりと、いや急に「大きなおしまい」がやってくるのかもしれない。鶴見さんも、橋本さんも、ルグランさんも「小さなおしまい」に続いて最後も「小さなおしまい」で終えらたれような気がする。僕がこの三人が好きなのは「死を想え」なんてなことを言わなかったからだと思う。最後まで「小さなおしまい」で通したからだと思う。

2018年1月31日
よくもうそろそろかなと思う方だ。だからいつもメメント・モリ「死を想え」とともにあるって思ってる。でも、いしいさんが言っているような「小さなおしまい」についてはあまり意識してこなかった。「大きなおしまい」とともにあるからそれでよしなのではなくて、「小さなおしまい」のくりかえしが「大きなおしまい」につながるということなのだ。小さな「終わり」をくり返しって鷲田さんはいつもうまいこと言うなぁ、「死を想え」ってたいせつなことだけれど、もう少しかみ砕いた言葉が欲しかったから。ちょっとだけ見通しが良くなった。
生きているそのあいだ、なるたけ多くの「終わり」に触れておく。そのことが、人間の生を、いっそう引きしめ、切実に整える……
いしいしんじ
人は自分という存在の始点も終点も知らないし、知りえもしない。自分がどこから来てどこへ行くのか。いずれも霧の中だ。でも、人の生が「終わり」を孕(はら)んでいるのは確か。だとすれば、旅にせよ、茶事にせよ、小さな「終わり」をくり返し「からだの芯へ収める」ことで、中途としての人生にも光が射(さ)す。作家の『且坐(しゃざ)喫茶』から。

2018年1月31日朝日新聞朝刊「折々の言葉」鷲田清一から